高知県の城跡

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高知県
土佐の七族
應仁元年管領細川勝元、山名宗全と争うて遂に兵火をおこすや勝元の支配下にあつた四国はこれに與し、土佐兵は細川勝益の指揮下に入って上洛、細川持賢らも一方の将として四国兵を率いて出陣した。このとき土佐の将香宗我部眞通らが戦死したとある。應仁の乱は文明五年宗全、勝元の領主将相ついで逝死後も容易におさまらず同九年にいたって各国の兵がそれぞれ退散したが、この間前後十一ヵ年にわたる長期戦によって平安奠都以来の都大路を焼け野が原とし、皇室は式微し、将軍の威令は行われず戦乱の余波は四方に拡大して各地の豪族が武威を競い、世はいわゆる戦国時代となった。これよりさき細川勝益は文亀元年曾祖父頼益追福のため香美郡田村に桂昌寺を建て僧日祝を招いて開基とした。この寺は後に長曾我部元親が種崎に移し、山内氏入国によって高知城に移して大乗寺とし、さらに潮江に移して妙國寺と号した。桂昌寺跡は寺堂を残し、承應二年細勝寺と改めたが殆ど廃寺となっていたのを大正十一年新築した。付近には城跡あり二の塀、的場など今尚残存している。應仁の乱後各地とも国司、守護は権威を失して土着の豪族が兵を養い互に攻伐したもので当時土佐にあっては七族割據の時代を現出した。安芸の安芸、山田の山田、本山の本山、岡豊の長曾我部、弘岡の吉良、蓮池の大平、半山の津野がそれである。

安藝氏
土居の安芸城にあって五千貫を領し、壬辰の乱に土佐に流された蘇我赤兄を祖とし子孫が大領職を世襲し備後守元親、山城守元泰らが勢を振ったが元泰の子備後守国虎にいたって長曾我部元親に滅ぼされた。
山田氏
山田三千貫の領主で楠目に居城し本姓を大中臣と称した。中原太郎秋家に出で下総守基道、治部少輔元義らが現れたが元義は長曾我部元親に滅ぼされた。
本山氏
八木伊典を祖とし本山城に據った。伊典の孫茂宗は梅渓と号し吾川、土佐二群を従え朝倉に築城するなど威を振ったが子茂辰いたって元親に追われて阿波に逃れた。
吉良氏
源頼朝の弟希義が土佐に流され、配所で婚して生んだ子の後裔といわれ、弘岡吉良ヶ峯五千貫の城主で天文のころ宣経が城内に南学講座を開いたことは有名な話で文武兼備の将であった。子宣直は本山梅渓に滅ぼされたが、のち元親は弟親貞佐京之進をして吉良の家名を再興させた。
大平氏
蓮池四千貫を領し、永正六年長宗我部兼序を攻滅して名を挙げたが、のち一条氏に部属した。
津野氏
藤原仲平の裔で半山五千貫の城主、延喜年間伊予に流された経高が浮穴川上山内から土佐に移り十代光高に至って大いに現れ、足利義教将軍の奏上によって備後守に任ぜられた。津野文化で貢献した名族で永正年代に光高の孫元実が戸波の井場城に福井玄番を攻めたとき一条氏の援兵に挾撃せられて戦死し、のち一条氏に降ったが、やがて元親と和し、その三男親忠を世嗣とした。
長宗我部氏
本姓は奏氏、信濃より土佐に移り長岡郡宗我部三千貫を領し岡豊山に據つて勢を張り、元親にいたって四国を平定した。以上七族が互に虎視耽々、互に盧を狙ったわけで、これらの一族配下が據点とした城砦が今に昔の跡を留めるもの、遺跡は無いが口碑にのこるものを数えあげると随分多い。以下主要なものを拾ってみる。
高知城
