我國刀剣の変遷

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第三章武家美術時代

第五節美術工芸

此の時代に於ける美術工藝品の今日に傳はれるものは、主として金属製の古鏡、刀剣、鐔、古鏡、鍔ロ、陶器、古代塗等である。これより古鏡を始め前述のものにつき逐次に基きてその特色と構造を述べて見やう。

二、刀剣

土佐の刀劍家とその作品につき記する前に我國の刀劍の槪略を窺ふの要がある。我國の刀鍛治の由來を尋ぬるに大寶年間より天慶年間までは斯界の第一期にして大和の天國が從來の方法を改めて一流を開き諸國に傳はつた。伯耆の安綱はその末流である、次に天曆より壽永年間までは第二期であつて備前長船の地に古備前一派か出來た。これは天國と安綱を折衷したものである。

この時期に京都に三條宗近があった。更に元寶より弘安に至る間を第三期とし刀鍛冶の全盛時 代となつた。それは源平の戰亂と後鳥羽法皇の刀劍を好まれ番鍛治を獎勵し給ふたによる。備前の光忠、長光、京の吉光國俊は最も傑出してゐた、更に正應年間より應安年間に到る間は第四期であつて斯界に大革命起り又衰運に入る時期である。これより以前三期の末に當り鎌倉の北條時賴は後鳥羽法皇の番鍛治の制に習ひて天下の名エを招いたが中に日光より大進坊來りこれ等は何れも鎌倉に於て門戸を張つたか大進坊の弟の行光の子に正宗といふものがあつた、幼より其技に生じ。京の栗田ロ一派や備前ー派の名法を參酌し諸國を歷遊して發明する處あり、正慶年間となり鎌倉にて相州傳のー派を開くこととなつた蓋し從來の刀劍は反り深くして形細く實戰に際し往々缺捐の憂があつたのを正宗ここに見る處ありて幅廣く反少く地鐵は大板目に沸あらく及文は大亂の壯快を主として匂深く全く古來の風を一變するに到つた。茲に於て天下風を望み當時一流の名工は靡然として其の門に集まつた備前よりは長船兼光、長義、大和よりは三郞兼氏及び金重、石州よりは直綱、山城よりは長谷部國重等當代名工を網羅して正宗門下の十哲が出來た應安の終りより鎌倉幕府衰ふると共にこの地の鍛治も又衰へて只伊勢に村正、備前に義光、長助、肥後に延壽のー門ありしも當時兵馬倥惚の爲め粗製濫造の風を生じた。かくして第五期に入る應永より天正に到る第五期は備前長船に康光、淸光、關に兼光、兼定。京に源左衛門信國の徒ある外に名あるものなし然れども世に應永物と稱し實用上にて案外に切れ味よく推賞せられた、此時代の特色は何れも文彩の華を去り地鐵を丈夫にし刃文は小亂細直を主とし、名もなき野锻冶の作に到るまで、折れず曲らざるの誇るべき長所を具備した、以上は所謂古刀の時代であつて、それより文禄慶長元和の新刀第一期に入る天正年間に京に明壽あり。豊臣秀吉祿を給して斯道を緞鍊せしめたので門下に名工を出した、次に寬永以降寬文延寶は新刀第ニ期にして多く名エを輩出したが四海漸く無事にして人は太平に慣れ滔々たる餘弊は鍛冶の作物にも波及し實を棄てて華につき徒に末枝をのみ弄するの風を生じた、然し當時京の國廣門下の國貞、大阪に來つて住しその子孫及び門下に名エを出し江戶にては德川家の御用鍛冶なる越前の康繼あり別に虎徹あり殊に虎徹は名工にして其の大業物に至りては古今唯一人なりといはれ た。由來新刀は古刀に比し其の上に出づるものがなかりしに僅に此のエを得て稍氣を吐くを得た以上は我國の鍛冶の大体の變遷であるが土佐に於ける刀劍につき記して見ると。

美術工芸

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