土佐美術会

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第四章庶民美術時代

第一節時代の大勢

庶民美術時代とは德川慶喜が大政奉還し明治大帝が踐祚せられた明治元年より昭和ニ年までの六十年間であつて我國の美術が殆んど奇蹟的なる進步發展を遂げたると共に土佐の美術も空前の發達を なして非常なる革命が行はれた、それは從來の美術なる、建築、彫刻、繪畫、美術エ藝並に書道は總て武家の支配の下にありて彼等は朴訥粗野にして美術を解せず之れを賤しめ美術に才能を有するものありしも研究の機關なく封建制度の爲めに他國修業不自由にてあたら有爲の天才も徒らに尋常彫物師、陶工、工匠の群に投じて墮落するを常とした。然るに當代に入り武家が亡びて士農エ商の階級が撤廢せられ四民平等となり封建鎖國の制度は廢せられて藝術、科學、の砑究が解放せらるるに及んで、鄕土の美術は全く庶民の手に落ちて空前の發展を遂げるに到つたのである。

土佐美術会

明治四十三年第十五回展覽曾を開催せんとせる時恰も田中光顯伯を會頭とせる東京土陽美術會の員洋畫家石川寅治の歸國して土佐美術協會と土陽美術會との聯合を說き數回交渉の結果合同するこ ととなつた、東京なる土陽美術會は明治四十年十一月乾南陽、山岡米華、本山白雲、石川寅治、等土佐出身の作家が東京上野公園內の三宣亭に會し土陽美術會創立を决議し明治四十ニ年二月田中光顯伯を會頭に推戴し同年四月ー日上野不忍池畔辨天堂に於て盛大なる展覧會を開き土佐在住の作家南部錦溪等の作品をも陳列して盛大を極めた沿革を有する團体であつた、かくして合併後は土佐美術協會の名稱を改めて土陽美術會高知支部となし鄕土美術に献身的努力をなす五藤正形氏支部長となり明治四十四年一月に支部の展覽會を開催し東京より文展其他大展覧會へ入選の大作を送り來り陳列せし爲め空前の盛會であつた、大正ニ年に會頭の上に總裁を置くこととなり山內豐景侯爵をその上に戴き名譽會員、賛助會員、幹事等を定めてその基礎が年と共に鞏固となつた、かくして大正ニ年秋には高知開市紀念のために紀念展覽會を催し大正七年には十週年記念展覧會を東京日本橋三越五階に於て開催し東京本部並に土佐在住の作家の作品を陳列し頗る盛會にて東都知名のものの觀 覽も多く賣約濟のものも亦多數であつた、大正十ニ年には更に第十五週年紀念として毎年行ひ來れる展覽會よりも盛大に擧行した、其の後この美術會は年と共に發展し每年必ず四月に於て日本畫洋畫を打つて一丸となせし展覧會を公會堂にて催し高知市の年中行事のーとなり觀覽人ー日にー千名を突破するを例とすかくて次第に進展し鄕土美術に貢献せること他に比を見ざる所であるこれ全く總裁山內豊景侯會頭田中光顯伯高知支部長五藤正形氏が鄕土の作家を擁護鞭撻し作家も亦奮勵努カして不斷の研究を繼續するによる。

美術工芸

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