吉田源郎

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第四章庶民美術時代

第五節美術工芸

當代に於ける美術エ藝は歐洲文化の影響を受けて古美術地を拂ひ刀劍、銅鏡、鳄等は又見るベからず尾戶燒も僅に製作せらるるのみにて往古の名殘を止むるに過ぎず漣田豐水によりて創始せられたる古代塗も門人小栗正氣その後を繼承せしも後進繼かず漸次品質の低下なり美術としての價値を失ふに到つた。明治四十ニ年の頃に高知市會議員信淸權馬の獨カにより土佐の美術工藝の振興を期し蒔繪及漆川を主とする敎習所を開設せしを明治末年より大正初年に渉り高知市立工業學校として生徒を收容せしが卒業生就職難により大正五六年頃閉鎖した、斯の如き內にありて美術エ藝家として名あるものを神矢敎親、吉田源十郎、鈴木素興となす

吉田源郎

蒔繪と漆工方面に於て現代に名をなせるものに吉田源郎と鈴木素興とがある、吉田は高知市の人大正初年に高知市經營のエ業學校漆エ科を卒業し東京美術學校漆エ選科に入り五年の後に卒業し大 正十年前後には日佛交換展覽會に乾漆花瓶を出品し好評を博し前途を囑望せらるる斬道大家である

吉野村若一王子宮

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