中村城

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高知県四万十市

城主は一条氏。幡多郡一万六千貫の治城である。文明二年一条教房はじめて土佐に遷る。これより先長宗我部文兼の父元親京師に使し屢ば教房の祖父経嗣に謁したが元親野人にして礼に倣わず、そこで経嗣が家人をして坐作進退、衣服言葉づかいなどを教えしめた。元親これに感激し、この恩七生忘れずと云った。そのうち應仁の乱となり公卿らの迷惑一方ならぬことを聞いた文兼が父の恩に報いるため船を出して教房を兵庫浦に迎えしめ岡豊城に招じ安芸、香宗我部、山田、本山、吉良、片岡、津野の七将を説いて曰く「康暦年間細川武蔵守が四国探題に補せられてより子孫これを傳えたが文明元年頼之五代の孫勝元の死去後国に棟領なく四国の地が乱れて隣国より我が隙を窺う者あり、よって中村の古城を修築して教房の居城とし、これを国司として戴けば治安が保たれるであろう」と、七将これに同じ文明十一年教房を中村に遷したもので、翌年十月教房死するや本山、安芸、津野、大平、山田、吉良、長宗我部の七守護および幡多三十六人衆と協議して正式に国司を置くことを朝廷に乞い教房の男房家を国司とせられた。これを土佐一条相傳の祖とする。
土居、羽生、為松、安並を一条殿の四老とし大岐、加久見、立石、江口、橋本、山地、上山、和田、鶏冠木、三上、米津、都築、蜷川、大和田、平田、伊興木、奈良、荒川、森沢、国見、入野、武田、秋田、蕨岡、佐賀、下茅、依岡、小島、若藤、敷地、栗本、長崎、佐竹、本井、津川、下山、勝間、鵜野江、高瀬、蓼川、塩塚、盥川、悪瀬、楠島および一宮神主飛騨守を城持ち四十四侍とした。永正五年五月長宗我部兼序の亡ぶや其の子千雄丸を房家が引取って養い同十五年国親と命名して舊領岡豊に復せしめた。天文八年十一月房家卒し二子房冬嗣ぐ。さるほどに長宗我部国親の子元親すでに六郡を平定し、勢に乗じて幡多を席巻し土佐一国を統一しようと志したが父祖みな一条家に大恩をうけているので隠忍して機を窺った。ところが房冬の孫兼定は人となり粗暴で無頼の徒を集めて日夜無軌道生活にふけり平田に遊宴して帰ることを忘れ、諫争の老臣土居宗珊を手討にするに及んで他の三老が事情を元親に訴え、元親の指金によって兼定を豊後に逐うた。兼定に室は大友宗麟の女であるからで、宗麟は家臣を土佐に遣わして兼定夫人と娘を迎え取った。兼定の後を嗣いだのは内政で、三老は人を岡豊にやつて内政を助け幡多の安泰をはかるよう元親に請わしめるところあり、善後策を講ずるうち三崎の加久見左衛門は三老が兼定を逐うた罪を鳴らし兵を催うして中村を攻め三老を自裁または戦死せしめた。元親これを聞いて人を遣わし巧みに内政を迎えて大津に遷して大津御所と称し、のち元親の女を夫人とした。兼定の一族は四散し天正二年元親は吉良親貞を中村の城監に任じた。兼定は報復をはかり宗麟にすがるも宗麟時期にあらずとして動かず、兼定こらえかねて伊予に赴き法華津播摩守則延を頼り天正三年則延兵を挙げて栗本城に據ったが元親の軍に破られ、兼定今度は津島宗雲、篠田宗円に倚って再起をはかり一たび元親軍を破ったものの内部叛乱のため津島に退き、一方一条氏の残兵が元親軍と逢坂に戦うて敗走した。天正五年中村の城監吉良親貞死し谷忠兵衛忠澄が城監に任ぜられた。

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