咸臨丸
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咸臨丸太平洋横断(萬延元年)
咸臨丸とは
嘉永以降諸外國より我國に向って通商貿易を請うもの頻出するに至り、幕府に於ても之に對する措置に殆んど困憊せる状態であった。就中米國はペルリが軍艦を率いて浦賀に入港以来再三にわたりて要請する所ありたる結果、安政五年正月に至り、幕府と米國使節ハリスとの通商条約は終了を告ぐるを得た。即ち所謂江戸条約と称するものである。かくて此の本条約交換の為めに、幕府は使節をワシントン府に派遣することとなり、米國からも又我が使節を出迎えの為め軍艦「ポウハッタン」号を我國に遣わした。よって我國よりも又使節の付属と云う名義を以て遠洋航海練習を兼ねて軍艦を派する事となった。しかもこの派遣軍艦の選にあたったのが咸臨丸である。
此の咸臨丸は、元来和蘭より安政四年に購入せし二艦中の一つで(他の一艦は朝陽丸)あって、船形は長二十七間、幅四間、馬力百である。いよいよ咸臨丸が我使節派遣の用船と決定して出航の準備を進めたが、其の乗込み艦員中には木村摂津守を始めとし、勝麟太郎(海舟)、小野友五郎、伴鐵太郎、佐々倉桐太郎、濱口興右衛門、山本金次郎、鈴藤勇次郎、肥田濱五郎、松岡磐吉、中濱萬次郎などの諸氏があり、尚この他に福澤諭吉氏は当年未だ二十七歳の若年であって、木村摂津守の従僕という格で一行中には加はったのであった。