咸臨丸

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咸臨丸太平洋横断(萬延元年)

英国滞在中と其後

一行が米国滞在中は、非常な優遇を享けたが、咸臨丸の水夫中に八人の病者を出したので、之に看護夫二人を添えて病院に託し、尚二名の死者を厚く葬ったのであった。斯くして、一行は使命を果たして後、同年閏三月十八日の午前八時、桑港を抜錨して四月二日に布哇のホノルルに入り、玆に四月間滞在したる後、同六日午前ホノルル港を発して同年の六月六日無事浦賀港に帰着したのであった。實に是我国の軍艦が初めて外国に往航せるもので、我が艦船が太平洋を横断したのは、是れが嚆矢である。因に、是れより先、和蘭国王ウイリアム三世は我国の海軍創設に資する為め、軍艦一隻を幕府に贈った。それは後に観光丸と名づけたもので我国汽船の嚆矢と言はる。後幾許もなく幕府は長崎に海軍傅習所を建設し、百数十名の傅習生を収容し、和蘭の海軍将校に就いて海軍に関する諸般の学術を修めしめた。又幕府にては従来大船の製造を禁じたが、嘉永六年に至り此禁を解いて盛に艦船を製造せしめ、又外国からも購入し、明治維新に至る迄に幕府所有に西洋形船は四十四隻に及んだ。

咸臨丸

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