宮古沖海戦
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賊将甲賀を殪す
「明治外史」の当時の状況を記すところに據れば、是日味爽忽ち一艦の米国旗章を掲げ港を指して來るを見る。官軍以て米艦となし備へを設けず、稍や近づき俄に米旗を撤して国旗を掲げ、巨砲を発して甲鐡に蹙る。是れ賊艦回天號である。官軍驚き僅かに火を蒸気鑵に點じたれども運轉発砲に遑あらず、水夫等は恐懼し、水に投じて遁れ去るもの衆く、賊艦は舵を轉じて我が舷は緊軌したので、我が舷は深く水に入り、彼は乃ち高く水を出て、彼我の高卑相距ること丈餘に達した。此時賊の大塚浪次郎は身を挺して跳り下る、野村理三郎、笹間金八郎、加藤作太郎等、これに繼いで刀を揮って突入した。官軍は乃ち六竅砲を以て、連発し、或は鎗を以て之を斃した。賊将甲賀源吾は艦梁に倚り、衆を指揮して頻りに五十六斤炮を発した。其の一弾我が甲鐡の甲板を穿ち、為めに官兵の死傷する者少なからず。既にして我が諸艦は救應し、夾撃甚だ急なり。賊将甲賀源吾は股及び腕に負傷したるも屈せず益々衆を督勵したるが、官兵は狙撃して終に之を殪した。賊兵卒かに沮喪し倉皇狼狽辛ふじて港内を脱して遁げ去った。途蟠龍、高雄と風浪の為に沮つる所なりし為、戦に会する能はず、高雄も亦其の機関を損傷して南部に漂着した。船将古川節蔵は自ら火を艦に放ちて上陸し、盛岡藩主南部利恭に就いて降を乞ふたのであった。是日官艦戊辰も敵砲を受けて毀損した。
已上の記事に見るに宮古沖に於ける海戦の如何に激甚を極めたるかを窺はれる。
本図は当時海戦の情景を描写したるもの、一見肉躍り血湧くの感を禁ずる能はざるものがある。