函館海戦

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悲壮なる賊軍の末路

官軍は勝に乗じ尚も進撃して終に敵将土方歳三を斃した。玆に於いて賊軍意気大に沮喪したるが、官軍は殆んど息も繼かせず進撃し賊軍の牙城なる五稜郭に迫り、官艦より発する砲弾は悉く五稜廓の城壁に命中し全壘震蕩して死傷算なく、賊軍の将永井尚志は此時辨天臺に在りたるが力盡きて五月十五日降伏した。敵将大鳥圭介は千代岡に在りて官軍の勸降に従はなかったので、官軍は之に猛攻を加へたるに賊軍は支ふること能はず五稜郭に逃込んだ。賊軍の主将榎本鎌次郎は必死を決意し、書を官軍に送って、負傷者二百五十人を湯川に移し、且つ役夫支那人四十餘人を放還せんことを請ふた。玆に於いて官軍は議して之を許容し、参謀中山良三は自ら五稜郭城中に至り、敵将榎本に会見して順逆を説きて降を勸めたるに對し、榎本は深く其厚諠を謝し、秘蔵せる「海律全書」二巻を執り出し之を中山に托し、「此書は予が往年和蘭在学の際、修むる所の書である、今予と共に此の貴重なる書を亡失するに忍びない、之を足下に托す、他日国家に益するあれば幸福である」と告げたので、中山は之を享けて帰陣し、参謀黒田了助(清隆)と共に書を草し、且樽酒を副へて城中の榎本に贈った。仍て榎本は衆と俱に酒を汲み「糧盡くるを待ちて戦死せんのみ」と告げたが、城兵の戦意全く沮喪して又如何ともすべからず、遂に大鳥圭介、荒井郁之助等と共に自ら刑に就きて出で降った。是に於いて官軍は大砲三十餘門、小銃千六百挺、米五百俵を没収し、城兵出でて降るもの一千餘人。斯くして函館の戦は終末を告げ、北海は始めて平定に帰するを得たのであった。
本図は函館港に於ける壮烈なる激戦の光景を描けるものにて、幕末最後を彩る華やかなる海戦の壮景である。

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