黄海の海戦
トップページ>高知県の観光>戦争と日本>日本海軍史>黄海の海戦
日清戦役
彼我の損害比較
この戦闘に於いて清国側では、経遠、致遠、超男沈没し、揚威、廣甲は逃走の途次攔坐した。この五隻の排水量計約九千二百噸、之に豊島沖に於いて失った二隻約千九百噸を加へると、清国は海戦以来實に一萬一千餘噸を減勢した譯である。丁汝昌の戦闘報告に「目下の處直ちに巡航し得るもの一隻もなし」とあるから残存諸艦も損害の甚しかつたことが分る。しかし定遠、鎭遠だけは堅牢無比で、特に定遠は装甲板一も穿徹されず、又砲塔も故障なかつた。我方では松島の損傷最も甚だしく、赤城、比叡、西京丸は之に次ぎ、その他は損傷と云ふべきものなかった。
死傷者は我方は二百九十八名、清国側約八百五十名(廣甲の分は不明)、尚この役清国側に従事した外人は英・米・獨人五名あり、内英人二名戦死。
黄海戦に於ける彼我の勢力及び損害比較は、前項に記敘せる如くなるが、今該戦に於ける我が艦隊の行動概要を記さんに、概ね左の如くである。
連合艦隊司令長官海軍中将伊東祐享は、其の率ゆる艦隊を本艦隊を本艦隊、及び第一、第二、第三隊の遊墼軍に分ち、本艦は其の頃続々と発送するところの陸軍を護送し、九月十二日(明治二十七年)朝鮮仁川港沖に達し、同月十四日に第二遊撃軍と報知艦八重山とを仁川港に留め、伊東司令長官は自ら百餘の艦隊を率いて発し、翌十五日には大同」江に達した。此日は豫て陸軍には平壌總攻撃の期日である故に、第三遊撃軍と水雷艇及び磐城、天城の二艦を大同江中に遡らしめ、平壌の下流なる鐡島まで進めて陸軍に應援し、十六日には松島、千代田、嚴島橋立、比叡、扶桑の本艦ハ六艦と、吉野、高千穂、秋津洲、浪速の第一遊撃軍四艦及び赤城艦、西京丸の十二隻を率いて大同江を発し、十七日午前海洋島を経て、盛京省大孤山港沖に至った。此時図らずも清国の北洋艦隊の精鋭を盡くしたる定遠、鎭遠、平遠、威遠、経遠、來遠、致遠、靖遠、揚遠、超男、濟遠、廣丙の十有二艦と、六隻の水雷艇とより成る艦隊に遭遇したので、我が艦隊は、偖こそ好敵手ござんなれと勇躍し、敵艦隊の近づくに及び旗艦松島より「戦闘の位置に着け」との號令一下、第一遊撃隊吉野、高千穂等前鋒となり松島以下六艦は本隊となり、双方の艦隊戦闘は刻々猛烈を極め、激戦は午後五時まで行はれ、終に敵艦経遠、揚威、超男、致遠の四隻を破壊沈没せしめ、定遠、靖遠の二艦また火を発し艦形散々に乱れ黄昏頃西方に逃走したのであつた。