威海衛の夜襲
トップページ>高知県の観光>戦争と日本>日本海軍史>威海衛の夜襲
日清戦役
彼我艦隊の精鋭對峙す
威海衛は支那山東省の登州府に所在し、芝罘の東で、劉公島が其口を扼し、清国時代には要害堅固の軍港として存在した。日清の戦役には清国の水師提督丁汝昌は、其の精鋭を誇る北洋艦隊を盡く此處に集中して熾んに我が陸海軍に抗戦したのであった。而して敵は劉公島及日島の東西とも、堅固な防材を設けて、我が艦の衛内に入るを防備した。玆に於て我が艦隊は、窃かに此の防材を破壊して、水雷艇を進入せしめ以て敵艦を爆沈することに軍議を決した。当時敵の北洋艦隊は、戦闘艦は定遠、鎭遠、巡洋艦は來遠、平遠、靖遠、清遠、以遠、康濟、廣丙、及び砲艦鎭南、鎭北、鎭東、鎭西、鎭中、鎭邊の十五隻で、我が艦隊は巡洋艦松島、嚴島、橋立、扶桑、千代田、吉野、浪速、高千穂、秋津洲、高雄、筑紫、金剛、比叡、天龍、葛城、大和、武蔵、海門、磐城、大島、摩耶、愛宕、鳥海、赤城、及び報知艦八重山の二十五隻で、實に双方海軍の全力を挙げて對峙したのであった。当時は敵は十三隻の水雷艇を有したが、我軍は十六隻の水雷艇を有し、之れを三艇隊に分ち、第一艇隊は餅原海軍少佐之れを率い、第二十三、小鷹、第十三、第十二、第七、第十一の六號より成り、第二艦隊は藤田海軍少佐之れを率い、第二十一、第八、第九、第十四、第十九、第十八の六號より成り、第三艦隊は第二十二、第五、第六、第十の四號より成る、而して武装商船近江丸及び山城丸の二隻を水雷母艦とした。