陸戦隊の太沽砲臺占領

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北清事変

匪徒義和圑の禍亂

清国光緖二十年、即ち我が明治三十三年五月十三日、義和團と称する圑匪の一圑猛然崛起し、山東省に本據を構へ、極度に外人を嫉視し盛んに排外思想を鼓吹し、基督教会を焼き、多くの信者良民を殺戮したるが、是れを端諸に禍亂は漸次擴大して政府當局は之を制するの能力なく、到底鎭壓し能はざるに至り、北京は殆ど無政府状態に陥ったのであった。斬くして北清事変の端諸は開かれた。
 是より先、太沽沖に集まり居りし列国軍艦は事態の切逼に鑑み、北京を保護すべく、其の上流の北岸なる塘沽に上陸し鉄道に依りて北京に向はんとした。當時太沽沖に集り居りし列国軍艦は我国は砲艦愛宕、英艦は二隻、米艦一隻、露艦六隻、佛艦二隻、獨逸、伊太利は各六隻であつた。而して英国のシーモーア将軍は此の連合軍を率ゐて天津に進入すべく五月二十八日陸戦隊を上陸せしめ、紫竹林の租界に達した。然るに之を防止せんとした清国の匪徒は連合軍と戦を交へたるも、其前進せるものは悉く連合軍の為めに銃殺された。
 斬て連列国の兵は五月三十一日天津を發して北京に向った。當時列国軍中我が愛宕艦の乗員は士官二名兵員二十四名で、列国に比して日本の兵數が少なかったので、此の少數の一部を割きて天津に留まらしむる事は頗る困難なる為め、天津の防備には別に笠置艦の派遣を待つ事となり、五月三十日軍艦笠置は天津に向つて發したのであつた。

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