旅順港閉塞隊
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日露戦役
第一次閉塞工作
明治三十七年二月十日、露国に對して宣戦の詔勅煥發せられ愈よ日露開戦の幕は切って落とされた。曩に我艦隊は旅順を攻撃して勝を奏した際、我が水雷艇隊は魚形水雷を発射して敵を戦慄せしめたので、敵艦は頗る勢力を挫かれ、以来敵艦は悉く旅順口内に蟄伏し出でて戦はんともせず、僅かに二三砲艦と、駆逐艦とを泛べて警備を怠らなかつた。玆に於て我が連合艦隊は旅順港口を閉塞封鎖するの必要を認め、愈よ旅順口を閉塞することとなった。斬て東郷平八郎司令長官は各艦に向って閉塞隊員たる決死の勇士を募らしめたるが、命令一下應ずるもの二千餘名に上つた。而して愼重人選の結果、七十七名の下士卒は二月十九日を以て各閉塞船に分乗し爆沈装置の準備に着手した。其の編成は次の如くである。
第一閉塞隊 天津丸、指揮官海軍中佐有馬良橘、機関長大機関士 山賀代三、上等兵曹 上信音蔵以下十五名
第二閉塞隊 報國丸、指揮官海軍少佐廣瀬武夫、機関長大機関士 栗田富太郎、一等兵曹大沼今朝治郎以下下士卒十四名
第三閉塞隊 仁川丸、指揮官海軍大尉斎藤七五郎、機関長大機関士 南澤安雄、一等兵曹山田伸二郎以下下士卒十四名
第四閉塞隊 武揚丸、指揮官海軍大尉正木義太、機関長中機関士 大石親徳、一等兵曹米良正蔵以下下士卒十二名
第五閉塞隊 武州丸、指揮官海軍中尉島崎保三、機関長少機関士杉政人、一等兵曹中川作太郎以下下士卒十二名
斬て此の總員七十七名を載せた閉塞船隊は、二十日の拂曉連合艦隊集合地を出発した。是より先、眞野海軍中佐は叢雲、夕霧、不知火、陽炎の四駆逐艦を率ゐて閉塞船掩護の任に當り、櫻井少佐は隼、鵲、眞鶴、千鳥、燕の五水雷艇を率ゐて閉塞隊員収容の任を帯ぶる事となり、此の四駆逐艦と五水雷艇は先頭となり、閉塞船たる前記天津、報國、仁川、武揚、武州の五隻は順次進航して旅順港に向った。二十四日の午前三時三十分、天津丸を先頭として老鐡山下より海岸に沿ふて港口に突進した。此時敵は陸上探海燈を點じて照射し、四面の要塞砲また猛烈に乱射したるが、素より生還を期せざる勇士は毫も怖るる所なく、益々港口に向って猛進したるに、敵の砲火は愈よ激烈を極め、探海燈の光は眩ゆくして正視し難く、先頭に進みたる天津丸は其目的地に到らずして老鐡山の東方に沈み、次で進みし報國丸は弾丸雨注の間を馳走して港口に入ったが、前方に座礁せるレトウヰザシは探海燈を以て照射し小銃を乱射せる為め、敵弾に舷門を破砕され火災を起こして沈没した。同船に尾せし仁川丸は其東南に於いて沈没し、武揚は天津沈没の外方約四百米の所で沈没し、五隻の船隊は完全に奏功し得ざりしも港口の一部を閉塞したのであった。而して五隻の水雷艇は敵の猛火を冒して収容に盡力し閉塞隊員全部を収容して總員悉く生還した斯て第一次閉塞は了つた。