第二次閉塞、廣瀬少佐の戦死
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日露戦役
叙上の如く港口の一部を閉塞したるも、敵艦は其位置を動かして自由に出入し居つたので、我は玆に第二次閉塞の必要を感じ、爾來其準備に着手し、今次の閉塞船は千代丸、福井丸、米山丸、彌彦丸の四隻と決定し、三月上旬準備成り、閉塞隊員の募集も下士以下は前回に溺れし者、若くは新志願者を採用し、總指揮官は有馬中佐再び之に當り隊員は總計六十五人であった。斬て三月廿六日旅順港に向ったが、二十七日午前三時敵の探海燈に発見され猛烈なる砲撃を受け、有馬中佐の千代丸は黄金山の西側に自爆沈没し、廣瀬少佐の福井丸は千代丸の左側を過ぎて少しく前進し、少佐は投錨の命を下したが、此時敵の發したる水雷が福井丸に命中し轟然たる音響と共に船は沈没し、彌彦丸も福井丸の左側に爆沈し、米山丸も亦虎尾半島の陸岸近き所に投錨し敵の水雷命中して沈没した。以上四隻は順次沈没を了りたるが、是より先、福井丸は船が港に達した時、指揮官廣瀬少佐は進行を止め總員を甲板に集めて点呼を行ひしに上等兵曹杉野孫七が一名不足の為め、少佐は之を呼び索めしも在らず已むなく端艇に移った瞬間、飛来せる敵の巨弾は少佐の頭部に命中して、其身は海中に顚落し壮烈無比の戦死を遂げたのであった。