第三次閉塞の決行
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日露戦役
第一次、第二次の閉塞は充分完全なる効果を得ざりし為、玆に第三次の閉塞を決行する事となつたが、前二回の経験により更に其数を増して總計十二隻とし、隊員は前回と同一人を送るに忍びずとして悉く新に募集し、數千人の出願者中より二百四十四名を選定して編成し、閉塞隊員全部が悉く閉塞船に移ったのは四月三十日であった。斬て閉塞船は五月二日の夕刻旅順港に航進し、閉塞隊は三日午前二時頃相前後して、旅順沖に達し、先頭に進みし三河丸全速力を以て港口に突進し、佐倉も續いて進入したるに敵は水雷を放火し猛烈なる砲火とを以て防御したるも、三河丸は屈せず防御防材を破つて奥深く闖入し中央の好位置に投錨爆発し、佐倉は港口尖岩附近に投錨爆沈し、續いて遠江、江戸、小樽、相模、愛国、朝顔の六船も亦港口に邁進し、猛烈なる敵の防御を冒し、遠江丸は殆んど港口の半部を閉塞して爆破し、江戸丸は港口に投錨の際高柳指揮官腹部を射られて戦死し、永田中尉代りて投錨を命じて爆沈した。小樽、相模の二船亦港口に沈没し、愛国丸はロ約五浬の地点で敷設水雷に罹りて沈没し指揮官機関長以下八名行方不明となった。朝顔丸は舵機を損じて黄金山下に爆沈した。以上の内五隻の閉塞船は港口に入りて沈没したる為め、少くとも港口は巡洋艦以上の通路に對しては完全に閉塞し得たのであった。武装なき商船を以て斬る危地に闖入するは、實に戦史未曾有の壮挙と謂はれたのである。