列車砲の沿革②
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また、分解して車載するとしても、大なる機重機その他の力作器具、並に多くの人員と日数とを要するので、かかる作業は戦場においては愈々困難となるのである。これがため当然の結果として、鐡道車輌に装載したまま射撃し得る火砲が考慮せられたのである。しかし大戦間工業用に余力の無い時、かかる大口徑の火砲を短日月の間に設計製造し得るものでは無い。そこで考え出したのが、従来持ってゐた不用な地點にある要塞砲及び餘り用の無い舊式軍艦の火砲を卸して鐡道車両に装載することにした。この考えはうまく圖に當つて、顧みられもしなかった舊式火砲も、一度足をつけられては四通発達した鐡道網を利用して、思ふ存分戦線のかなたこなたを濶歩し、新式の第一戦の各火砲を後目にその威力を逞くしたのであった。それに刺戟せられて大戦末期には、各種新設計に成るこの種火砲が次々に現はれ、終には戦場の後方に現はれて随處に位置を變換し、敵の飛行機の厳重な偵察の眼をのがれて、遠く100キロのかなたを射撃する如き偉大なる列車砲も現はれるに至ったのである。かくて大戦は終結し和平が布告せられた戦後と雖も、この方面の研究は盛に行はれてゐるのである。