長射程砲
高知県の観光>戦争と日本>軍艦集>思ひ起す巴里の恐威
1918年3月23日午前7時15分、巴里の市民は大爆発物の市中落下に驚かされた。時恰も獨軍は、アミアン前の英軍に向つて攻撃を取つた二日後のことであった。しかし一抹の雲だにない大空には一の航空機の姿をも認めず、また敵爆撃飛行隊来襲の警報も無かったのである。更に二十分の後第二発、尚ほ二十分の後續いて第三発の爆音を耳にしこの日を通じて市内に七発の爆著があつた。かくして警報は発せられたが、一般の不安混乱は増大するばかりであった。第一回の爆発物落下と共に、當局は獨軍航空機捜索のため、飛行機を派遣したけれども何等発見することができなかった。この日爆裂破片に對する検査によつてそれは砲弾であることが判つた。そこで彈著點を地図上に集めてこれを研究して見ると、その方向は巴里に最も近い獨軍戦線の位置に通じた。尚ほまた飛行機はラオンの西方クレピイ附近の森林に通ずる、新しい鐡道施設を発見したので、巴里に爆弾を見舞はせたのは獨軍の火砲であったことは最早疑を容れぬところとなつた。この長距離射撃は三月二十八日から八月九日まで、百四十日に亙るけれども、實際巴里を砲撃したのは四十四日で、巴里に打込んだ砲弾は市内に百八十三發、郊外に百二十發合計三百三發であつた。その結果死者二百五十六名、傷者六百二十名であるけれども、多大の精神的効果を呈し、約百萬の住民が巴里から避難したといはれている。