短い巨砲の壽命

高知県の観光名所

高知県の観光戦争と日本軍艦集>短い巨砲の壽命

装藥量が弾丸の重量よりも大きいこの巨砲の壽命は頗る短かいものである。即ち三月二十三日に巴里を攻撃した二十一發の射距離半數必中界(同一目標に對し同一條件で無限大多數の弾丸を射撃してその平均彈著點の前後に射方向に直角に二直線を劃した時、この二直線内に全射彈數の半數が包含される如き二直線間の距離をいふ。従ってこれの小さい程火砲の制度が良いことになる)は約二哩、方向半數必中界は3/4哩、翌日發射した二十一發は更に被彈地が擴大し、第三日の六發は愈々不精確となり、遂に射撃を中止した。戦後にこれは身菅(挿入された砲身)交換のため後送したものであることが解つた。即ちこの巨砲の命數(廢砲となるまで射撃し得る彈數)は約五十發である。尤もこの火砲の精度の悪いのは、弾丸の經過時間が三分といふ長い時間であるから、この間気象の影響を受けることの大きいのも、その大きな原因である。この不利を除くためには、飛行機の高空飛翔によつて弾丸の發着、兩地の気象を觀測する等のことが必要である。射撃諸元の算定には方向、射角、各高度に於ける風速及び風向、火藥及び砲身の温度、精密なる彈量、砲内弾丸の状態、気壓、地球表面の彎曲及び地球の自轉等を顧慮したのである。120キロの距離においては地球表面の彎曲により、火砲と目標との間の直距離と實距離との間に約半哩の差がある。また經過時間三分間に巴里の緯度に於ける點は、地球自轉のために半哩東に移る。これがため砲身は目標よりも東方半哩に指向せられねばならない。かくて命中が期せられるのである。射程120キロに於ける弾道中最高點の高さは約38600メートル發射後二十五秒に於ける高度は19300メートルである。發射に際し砲架に對する後坐壓力は約433瓲、弾丸の初速は1700メートル毎秒で、旋動の速さは107メートル毎秒、この時の空気の抵抗力は900瓩である。そして高度19300メートルに於ける氣壓は、僅に1/10氣壓に過ぎないのである。存速は最初の二十五秒間に1700メートル毎秒から1000メートル毎秒に減少する。90秒後の弾道の最高點は38600メートルであるが、空氣は最早や何等の抵抗をも呈さない。また温度は恐らく絶對零度に近づくであらう。そして存速は670メートル毎秒に減少する。その後65秒にして弾道は再び19300メートルの高さとなり落加速度に依り再び1000メートル毎秒の存速を有するに至る。その後數秒間存速は尚ほ増加するが、空氣の抵抗力に依り終に750メートル毎秒に低下する。そして總經過時間は百八十六秒にして弾丸は目標に到達する。圖によって大體弾道の模様が想像し得られる。巴里攻撃砲の第一陣地は、前記のやうにクレピイ附近森林の伐採箇所にあつた。そして射撃する前には附近一帯に多量の發煙劑を使用して、發煙によりその位置を瞞まし、また發射と同時に附近にあつた十二門の重砲をも一齊に發射させて、佛軍の音源標定隊を欺瞞した。

短い巨砲の壽命

高知県の観光へ戻る  戦争と日本へ戻る 
昭和初期の兵器へ戻る