迫撃砲

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なほ最近の紙上に屡々現はれる迫撃砲がある。前の曲射砲もこれの一種とも考へられるが、その特性としては、①彎曲した弾道を持つこと②弾丸の破壊威力が大なること③弾丸重量の割合に砲の重量の小なること等であるが、これは日露戦争當時既に我が軍で考案されてをり、歐洲大戦によつて異常な發達をしたものである。獨逸は戦前から研究を重ねてをつたので、開戦とともに、これによつて非常に活躍したのであるが、佛國はその優勢なる野砲に信頼して、全く迫撃砲を等閑視してゐた。それで獨軍の迫撃砲に悩まされて、その必要を痛感し、急遽製造に着手したものであつて、勢ひ兩者の間には形式の相違が生じて來たのである。即ち獨軍のものは砲身には腔綫があり尚ほ駐退機附のもので、火砲としての形を整へてゐるに反し、佛軍のものはいはば花火筒式のもので、一個の砲身(といつても一方を塞いだ鋼の管に過ぎない)とこれを受ける床板と支柱との三部に過ぎず、砲身の底に撃針があつて、弾丸を落すと直ちに發射するものである。更に兩者の弾丸を比較すると、獨軍のものは弾丸を旋回せしめるために鋼の帶を持つてゐて、普通の火砲の弾丸と似てゐるが、佛軍のものはこれがなく、丁度飛行機から落す投下爆弾と同様な形をしてゐる。支那軍が各地で使用し皇軍を悩ました迫撃砲は、この佛國流のものである。なほ昔は有柄弾丸を使用した。すなはち砲身の口徑と同じ中徑の柄を持ち、砲身口徑より大きな彈體を有する弾丸を發射する迫撃砲もあつたが、射距離が小さいのと命中精度が悪いので、今日のものは皆砲身の口徑と弾丸の中徑とは同一である。迫撃砲の射距離も最初は四五百メートルに過ぎなかったが、今日では三千メートルに及んでゐる。由来兵器の研究は極秘にされて窺ひ知るべくもないから、何處かに物凄い迫撃砲が研究されてゐるかも知れない。

迫撃砲

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