湛慶作毘沙門天像雪渓寺

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第三章武家美術時代

第三節彫刻

湛慶の銘ありて近世全日本的に喧傳せられつつある毘沙門天立像は浦戶港の西なる長濱村の雪蹊寺に安置せられてゐる。此の立像は明治四十四年四月に鎌倉時代の傑作として國寶甲種三等の指定を受け大正七年之れが修埋を施せし際に足部の下なる臺と左足との接合せる箇所を臺より引き拔きたるに左足底部に左記の銘が墨書してあつた。「中尊ー体、並吉祥天女禪尼、師童子以上三尊法印大和尙洪慶』と湛慶は運慶、快慶と共に三慶と稱せられ古今屈指の巨匠である。祖父に康慶、父は運慶にて早くより彫刻の技を學び名工の聞えあり、建曆三年四月法印大和尙位に叙し東寺大佛師職に補せられ兼ねて繪書に長じた。嘗つて年少の時建久年中運慶と共に東寺の本尊を修理し南大門西方のカ士を造り又共にニ天を作り西方増長天は湛慶の造る所にして優秀であつた、建保六年東大寺東塔の四佛を刻み貞應、安负の頃には山城高山寺の諸佛を一手に造つた。嘉禎年間將軍藤原賴經の請により一切經供養の本尊釋迦に模して書き又高野山金剛カ士ニ体を造り建長三年七月蓮華王院中尊の佛像を作り、同六年正月竣る時に年八十ニ其の後尙彫刻に從ふも歿年詳かでない。而して土佐に湛慶の作の毘沙門天立像の渡來せし由緖明かならず、惟ふに雲蹊寺はその元は高福寺と呼び鎌倉時代より著名の古刹にして天正慶長年間奏氏間菩提寺たりしを以て斯の如き名作品の秘藏するに到つたであらう。此の像は高さ五尺五寸六分ありて身長に對し体格並衣褶の表現が極めて忠實にして刀法が剛健自由で少しも緩みがない。鎧や下衣の皺はー々寫實的に出來てゐて批評の少しも餘地がない。特に顏面の表現は鎌倉武士を髪髭と顏前に見る如く眞に迫つてゐる。眞に土佐の國寶佛体中に卓絕せるものであるが只左手が手首より折れ右手が肩より缺損してないのは遺慽であるが其の他の部分は完備して保存されてゐる。而してこの像の用材は檜材にて手法は鎌倉式木割法に依つてをる即ち佛身の胴の正面は中央にて縱に矧き腰以下左右の脇にて同じく縱に矧ぎ背面は中央、肩、腰、裾、等を縱に矧ぎ頭部は頸部にて胴に揷入し面部は右眼の部分にて縱に矧ぎ內刳をなし玉眼を嵌入し寶髮は釘にて取附け兩手は肩にて柄を以て接合し左袖は多數の木片にて矧ぎ合せて造つてある。兩脚は膝の上にて胴に差込み兩靴先きを矧ぎ何れも釕餸等にて固めしもので本体は兩足より柄を彫り出し夜叉の 背部に差込みて安置し夜叉の胴は一木にて造り右手は肩にて矧ぎ右足は腰にて差込み髮は肩と後頭部に木を打ち付けて彫り出してある。この佛体は約七百餘年前の製作にかかるを以て永き年月の間に於て損傷してをる部分が多かつた例へばこの佛身は寶髻天冠をつけ右手を擧げ、左手は屈臂し腰部に鬼面を附け右足にて夜叉の頭を踏み右足にてその腰部を踏むでをるが、寶髻は半分紛失し、面部の右方にて矧目は損傷し兩眼は鼠害を蒙りて玉眼も紛失して大なる穴を生じ右手は肩より紛失し左手の手首も紛失し、左肩及び袖の矧目や胴の中央、腰より以下の左右矧目や裾の部分等何れも損傷し靴の先は缺失し背部も損せられ、夜叉の腰部や左肩左足も損傷し、右足は紛失し臺座は光背もなかつたが大正七年に修繕して臺座を長方形一段となし夜叉の損傷せる部分の矧目を緊結し、缺失の處は補填し、鼠害を蒙りたる兩眼は穴を塡補して玉眼を水品にて作つて嵌入し總て舊態に復することを勉めたものであるが紛失せる手は修理困難につきその儘にしてある。

彫刻

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