武市高明

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第三章武家美術時代

第三節彫刻

武市高明は高知城下廿代町に生れ最も彫刻に長じ意匠巧妙刀法自在にして實に土佐國の左甚五郞にて國中第一の作家である、通稱を甚七と呼び萬里又は永念と號した、初め竹籠細エを業とし後掛川町に移り彫刻に從ふ、甞て藩主山内豐昌の爲め根付を彫り又命を奉じて御城三の丸の上段の間の正面の欄間を刻すそれは甚七が三十歲前後の腕盛りの時で丁度高知城が再築せられたので彼は縱橫に腕を振ひ國主の信任によつて名聲を擧ぐることが出來た、梅樹に母鳥並に次の間の三の間に澤潟に鴛鴦の透彫を刻したことは高知城三の丸の條に詳記してある刀法雄健深刻にして最も世に稱せられ苗字を免ぜられた。この欄間は川崎幾三郎氏之を藏し寶曆年間の銘がある、寬政年間廿代町神明宮に献ずる馬の額を刻んだが今猶同社の拜社に揭げてある、高明の傑作は八百屋町川崎家に藏せる久米仙人の立像彫刻である、それは當時神社の祭禮に用ゆる花臺に据付けん爲めに依賴せられしものにして大小ニ軀あり町所有のものと川崎家所有のものとにて町所有のものは大にして川崎家所有のものは小にて高さ一尺ニ三寸余にて刀法荒く粗なれども先年內務省囑託新納忠之介氏が之を町所有のものよりも優秀なりと推賞せし由である、町所有のものは立像にして用材は檜にて一木彫にて高さニ尺三寸半禿頭にて玉眼を嵌入しロを開き齒を現はし破顔一笑の狀を示めし仙人颺逸にして躍り出でんとす頭髪、ロ髯、眉ひげは木彫ならず實際のものを附加し筋肉は誇張して現はし肋骨の如き不自然なる部分あり、然れども顔面の表情や手、足など頗る寫實的にて巧妙を竭してゐる筍の皮の笠を持ち南天の杖をつき箱の內に納めたるが、箱の蓋の書は岩井玉洲筆にて人形仙人と書し裏に寶曆三酉九月吉日八百屋町武市甚七高明作天保九戊年ょり八十六年成と銘がある。この人形彫刻 は三十歲前後の腕盛りにーヶ年を要し殆んど完成したる時偶或る國老より冑の修繕を受合ひ居りしに其冑飾りの龍は左甚五郞の作として有名なりしを高明その玉眼を拔て仙人に嵌せしに見車の出來となりき後高明自ら白裝束を着込み國老の所に行きその始末を訴へ所刑を請ふ國老その丹誠に感じ慰論して之を宥した、是より高明身を献じ此の彫刻をなすこと國中に聞え其の名譽益々高くなつた高明は工夫に長じ雛祭、花臺等に飾りに用ゆる紙樱はその考案になり一時甚七櫻と稱し世に持て囃されしといふ、安永五年二月十六日五十五歲にて歿し潮江山淸水庵上に葬り戒名春善理生信士といふ。その門人に猿屋金藏がある。

彫刻

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