近藤洞簫

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

近藤洞蕭は名を益尙字は小平次といふ。洞箫、丹靜斎、自齊などの號がある。遠祖は安藝國に出づ父吉右衛門母池氏にて幼より繪畫を好んだ、八九歲の時浦戸町眞宗寺和尚に就て書を學ぶ手習草紙に唯繪畫を描きて字を習ばず和尙怒りて其父に吿ぐ父亦其懶惰を思ふて縛して柱に繫ぐ洞蕭淚墜ちて席を沾ふす乃ち足を以て又畫を描く和尙等初めて之を奇とし其昔雲舟の故事あるを思ひ遂に書を强いす是より御畫師村上龍臥に從ひ専ら繪盡を學ばしめ刻苦奪勵して其の業日に上進した。十七歲の時江戶に赴き狩野洞雲益信の門に入り其の蘊奥を極めた、寬文十ニ年四代國主豐昌之を聞き其の篤志を感ぜられ三人扶持を贈はる洞箫自ら落髪して是より自齋と號し苦學十餘年を經て國にかへる。師洞雲扁字を授けて洞箫號せしむ是より召出されて御畫師となり留守居組に拔擢せられ祿若干を賜ふ幾くもなく又扈從格に超進し四人扶持切符十五石を賜ふ元祿十六年十二月十六日四十ー歲にて歿した子なく京人九兵衛を養ひて繼とし寶永五年江戶に歿し家斷絕した洞箫は畫師なれども最も氣骨あり甞つて君前に出でて揮毫す、公命じてー圖を畫かしむ洞簫描くを欲せずして故らに他圖を畫きて献ず公之を怪んで其の故を詰る洞箫答へて日く臣年老ひて耳聾となり君命を誤り聞萬死謝する所を知らずと公笑ふて日く汝の平生に背かず自今宜しく聾と號すべしと是より好みて龍耳と號した、龍耳は聾の割り字である。又或時君前に揮毫す白粉を以て紙上に塗抹す彩色慘儋として何圖たるやを辯せず公之を問ふ答へて曰く遠山の櫻なりと蓋し近山の櫻は花影分明なりと雖も若し夫れ遠山の櫻に至りては只ー抹の淡霞なるのみを公又笑ふて之を賞した、洞箫の作は墨痕勁拔にして彩色も亦潚灑にー見自ら狩野流の神髓を備ふ其の勿來關、櫻井驛等の歷史晝に至りては最も師傅に基きて獨得の妙所がある。その遺作は土佐神社の拜殿の正面に宇治川の先陣の圖あることは土佐神社の條に述べ又山田町八幡宮拜殿に源義經が弓を流せる圖が洞簫の作風に近きことは山田町八幡宮の條に述べてある。民間の所藏に高知市浦戶町濱田彥造氏がその遺作を所待し優秀の作である又八百八百屋町川崎源右衛門氏が三輻を所持し何れも絹本の尺五にて牟禮高松の圖は黑馬に誇れる源義經が海邊を驅けつつある圖で極彩色の婉麗なるものである、他のニ輻は竹に菊と牡丹で何れも極彩色で對輻になつてゐて本書の卷頭に其の寫眞を揭げてある。

彫刻

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