我國の南畫と土佐の南畫

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

南盡はもと唐の玄宗の時に王維の創始せし盡法で南方文人の戯墨より發達せしを以て文人畫の稱があつて北畫に對してゐる、宋となり北畫壓倒せられしも薰源之を中興し明にては沈文、淸にては王石谷沈南蘋此の派を代表してゐる、その日本に渡來せしは德川中期にして享保年間に長崎に淸人なる伊孚九來りて之を傳へその古淡、蕭疎なる山水畫は頗る當時の人心を動かし皷城百川、祇園南海、柳里恭等の漢學者の之を學ぶものが多かつた。その中にて池大雅、最もその眞隨を得て文人畫の肇祖となる、同時に謝蕪村あり皷城百川に學び元、明の畫風を研究し一家をなし文政、天保の頃山本梅逸、田能村竹田、渡邊華山等輩出し頗る隆盛となつた。土佐にありては中山高陽が皷城百川につき南畫の眞髓を得て之れを門下に傳へ岩川西臺、上野弘陵松岡廷美、黑岩安節等が南畫の傳統を承け爾來土佐には次第に狩野派が袞退して藩末には南畫が之れに替ることとなつた。次に南畫の作家の列傳に入らう。

彫刻

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