岩川西臺

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

岩川西臺は姓は源名は處和字太初といひ西臺と號し又雲峰と稱した、祖名は春益父の名は惠迪母は杉本氏といふ、西臺は幼にして學を好み博く群書に涉る己に長じて後藩主に仕へ江戶に往來すること三十餘年能く其の吏務を盡し數々幣服を給ひ又祿帙を加へらる。少壯畫を好み中山高陽の門に入り大に之を切磋した、高陽も又其の篤志を愛し最も善くこれを指導した、寶曆年中高陽東遊して江戶に留まる西臺東行の時常に之を訪ひ敎を乞ふ高陽西臺に左の贈詩があつた。多時空憶十州路、五日飽尋一石門、也有幽人爲商量、依然寫出霧中山。 甞て浦吏となり大に職に叶ふ安永中師高陽の隨筆を抄し印行して世に施こす、畫譚鶴助是なり、寬政七年冬十一月六日歿した、年六十四、高知城西土佐郡福井村西王子宮の西畔に葬る、次子易定墓に銘してある。

彫刻

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