古屋竹原

トップページ高知県の観光高知県の美術第三章武家美術時代三節彫刻>古屋竹原

第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

古屋竹原は高知城下廿代町に生る、父を善次貞純といひ其のニ子である、通稱は尉助、又莊助と稱し名は良材字は棟梁、初め講齋又點伯と號し後竹原と改め別に顧嶽又十畝園主と號した、享和元年十四歲の時東上し廣瀬臺山光明寺雲室の門に入りて南畫を學び留ること五年にして歸つた、文化四年廿歲の時大阪に上り刈谷兩三、小松久安に師事し醫術を學び三年にして歸り西久万村に醫業を開き同七年又上阪し篠崎小竹の塾に入り經史を學び歸鄕の後廿代町に帷を下し子弟を敎授す後又居を東久万村に移した、文政五年三月便船を求めて上阪せんとて須崎に至る、畫道の門人武內富藏書家下元西洲等の頻りに留むるに會ひ遂に上阪の念を絕ち同浦古市に卜居し儒醫の傍ら畫枝を業とす、これより身を終るまで催々嘉永四年六十四歲の時豐後別府の溫泉に浴したる事の外足國境外に出でず専ら優雅風流に餘生を送つた、須崎の地は魚鹽の集まる所にて甞て文華の見るべきものなし、然して下元西洲は書道を以て竹原は畫道を以て一度其の風流を鼓吹してより翰墨の風漸く盛となり人心一變始めて醇雅の風に向ふ、天保中山內豐著及び容堂父子須崎に遊び竹原を召し物を贈ふ、尋で翌年容堂の爲めに手本畫を奉る、萬延中山內大隅西遊の時又旅館に召され畫數葉を畫きて之を献す文久元年六月廿五日歿す行年七十四歲、男、柴竹、竹軒、竹涯皆家業を續で畫を善くす、紫竹家業を受け明治の末七十餘歲にて残す、竹原の畫は蒼勁穩秀にして山水人物四君子皆よし東遊中に梅畫の名人加藤梅翁に畫梅の法を問ひ悟入する所あり老幹疎枝槎牙橫斜雲月併觀の筆法何れも皆妙境に入る、世に竹原の梅と稱し賞玩するものが多い、安政三年寶永津浪溺死塚の碑文を草して今猶現存 してゐる。

彫刻

トップページへ戻る  高知県の観光へ戻る 
高知県の美術へ戻る