徳弘右門

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

徳弘石門は城西中須賀に住した、名は保孝道稱は初め直蔵と稱し後に庄九郎と稱す、一號石崖といふ代々砲術の家筋にして石門幼より畫を好み狩野家の門人松綺德治につきて習ふ後官遊し江戸に上り石里法橋洞秀に至り敎を乞ふ洞秀曰く子は專門の徒にあらず丹青を以て生涯の一楽とせんには支那畫に如かずと是より改めて廣瀬臺山、光明寺雲室、春木南湖の諸家の門に出入し大に南畫を学び 風流一世に名高かつた、性奇癖あり大石を好む門內に一大石臼を置く依て石門と號す、甞て其の友伊野村の高田春塘を訪ふ庭內に天巧の五輪石あり石門之を欲す甚だしー日西行の途寺窃に春塘の庭に入り之を携て歸る。後春塘之を知るも敢て咎めず人其のニ人の曠達を稱す、文政八年五月六日行年四十九歲にして歿した、男を薰齋と云ひ名家たり、薫齋につきては後章に之を記す。

彫刻

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