夢窓國師筆吸江庵額

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

日本の書道は應神天皇の時百濟王が論語及び千字文を献せしより始まりしが如しと雖もその書家として後世より仰がるるものは奈良朝に入り聖武天皇光明皇后、良辨、行基等である、その書体は何れも晋の王義之、王献之父子の流を傅へたものであるが就中光明皇后最も優れその樂毅論及び杜家立成王勃詩集の書風は古今に卓絕すと稱せられてゐる。然し此の時代は準備の時代を出でずして獨特の書風を見るこは出來なかつたが平安時代となり和風創始時代に入り吉備眞備、嵯峨天皇、弘法大師、橘逸勢等によりて一大革新時代に進んだ、中にも弘法大師は唐の韓方明より學び大師流の書法を創始して之を嵯峨天皇に傳へ嵯峨天皇はその書風を小野篁に授けそして紀夏井を經て紀貫之に及んでゐるが弘法大師は嵯峨天皇と橘逸勢を加へて三筆稱せられてゐる。而して大師流は嵯峨天皇その後に小野道風、藤原佐理最も優れこの書風を上代樣と呼んだ、然るに道風、佐理と共に三跡と仰がるる藤原行成は大師流に自己の個性を融合して新機軸を出した。これは我國の和様の濫觴であつて後世の和樣の末派である御家流も持明院流も加茂流も皆この流から出でてゐる。行成の和樣の書風はその子孫が世尊寺を氏としたので世尊寺流といつて南北朝時代まで續いたが同時代に尊圓法親王出でて王義之父子の書法に行成の書風を折衷して流麗豐肥なる書法を開いた、これを御家流と呼び時流に適合し天下を風靡した、又後奈良天皇の頃持明院基春が行成の書法によって持明院 流を開き天文年間に至りて飯河秋共が唐風に行成の書法を習んで加茂流を傳へ徳川時代には和橋は御家流、持明院流、加茂流の三派が行はれた、然るに德川時代にては儒學の勃興につれてその本図たる支那の書法再び行はれ儒者其の他は和樣を棄てて彼の國の書体を學ぶに到つた殊に寬文の頃肥後の人なる北岛雪山が明の文徵明の四傅の筆法を學び細井廣澤に傳へその鬥人関思恭、其寧、三井親和、平澤淳信、澤田東江等は何れもその流を傳へた人々で頗る勢力を有し當時天下に流行した。荻生徂徠、澤田東江、賴山陽、皆川淇園も儒者として書の名手であるが幕末に貫名海屋は菘翁と稱し楷行草三体をよくし最も傑出した土佐の書道は上古に於て記すべきもの少なく金剛福寺に存せる補陀落東門の嵯峨天皇御筆安藝郡室戶町金剛頂寺にある弘法大師筆。

彫刻

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