仙石九畹

トップページ高知県の観光高知県の美術第三章武家美術時代三節彫刻>仙石九畹

第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

仙石九畹は江のロの人、名は勝明字は子新、通稱は初吉次後祐三郞といふ、凌宵堂と號し晚又瓊翁とも號した、世々馬廻の士にて釆祿三百石を食んだ、性温和にして武技に長ずる傍に於て書道に嗜み澤田東江の高弟宮井南溪の門に入り之を學んだ寬政中屢々江戸に官遊し東江の高弟芝田汶嶺の門に入り益々之を研究した、九畹は大祿の家に生るるも平素極めて質素にして粗服を着けて從僕ー人を從へて師の家に行く汶嶺以て微祿の士と思へり、寬政の頃汶嶺病臥し漸く革まるに及び弟子を會せざる事數十日の後强て會席を設けて九埦を招て筆削をなさしめ臨本を書せしめて後歿す、男平太郎年小にして家業を繼ぐ能はず遺言して九畹を養子となさんとし人以て笑談となす、又或る年九涴藩主の駕に從ふて東海道を上り小田原驛に宿するや夜半急に起きて小刀を佩き東に向って拜す、同行のもの怪んでその故を問ふ答へて曰く余篆法に於て師に聞洩せし事あり今師夢中に來りて敎ゆ依りて之を拜謝すと其熟心なること以て知ることが出來る、嘗つて學書の歌を作りて曰く、「魏晋の筆を杖として、唐の六つ山踏分けば、しばしば路はありぬとも、むばらの中には迷はじ。」と常に曰く諸大家字を寫すには最も水を擇ぶ余は檐下雨垂りの水にても宜しと又書を寫す頗る謹直にして一字一畫をも苟くもせず、其の書ニ枚を重ねて見るにー枚の如く寸分違はず、居常靈芝を好む、或は門柱にかけ、或は檐下に彫り付け或は襖畫に寫し或は筆架に用ひ其の外室內ありとあらゆるもの皆靈芝を飾らざるなし、或時壬生水石を招く飯を饗す膳椀箸皆金漆もて靈芝を畫く其の中椀の蓋を開けば椎茸あり二人呵然として大笑す又或時隣家桐間國老の庭內に靈芝生す皆戯れて曰く靈芝問違へて他所の庭に生ずと、官曆は扈從より使番となり遂に物頭に進んだ文政四年十ニ月三日歿した、行年五十四歲、秦泉寺村天塲山に葬る碑上屋蓋靈芝を刻して飾としてある。

彫刻

トップページへ戻る  高知県の観光へ戻る 
高知県の美術へ戻る