江村老泉

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

江村老泉は名を震と云ひ字は致福通稱は初兵太夫後彌三と稱す、本姓は秦氏其の先は長岡郡江村領主備後守親政に出づ、慶長の頃に至り子孫山内氏に仕へて步士となり世々吾川郡長濱に住した、老泉に至り始めて居を城東新町に移した、性明敏にして篤實且つ强識にして經濟に長じ謙信流の軍法と南蟹流の丁見を嗜み壯年の頃紙役して江戶に往き關鳳凰の門に入り書道を學び遂に廣澤より入り 趙子昻に诉り自ら一派を開く受學門下の徒士大夫以下庶人に至るまで千餘人に及んだ、官務は步行歩行小頭、勘定小頭に累進し格式は留守居組に昇り遂に勘定頭となつた、その間數十年倬祿を增加すること数回に及んだ、人となり謹直にして苟も非禮の行をなさず、人の需により書を揮ふに袴を着けざれば筆を執らず、一夜人あり深夜城下を過ぐ、一老人の杖をつきて先きに立ち行くあり、城に近くに及びて杖つくことをやめ脇に挾みて行く、城の前を過ぎて又杖をつきて行く、其の人怪みて窃に尾して行けば新町江村氏の家に入る、初めて其の考泉たることを知りしといふ、世以て衛の遽伯玉が衛公の門を過ぐる時車を下りたる故事に比し美談となした、又或る年京都に在りし時五條寺町蓮光寺に長曾我部盛親の墓を弔ふにささやかなる五輪にて苔蒸したるを嘆き自ら數金を投じて大理石を建てて之を表した、その善行かくの如きは枚擧に遑あらず、文化十二年に年八十歳にて歿す、長濱小田山に葬る、後門人相計り其の一生の敗筆を乞ひ集めて同村雪蹊寺に之を埋め筆塚となした、門人箕浦耕雨その銘を作り同細木驚仙之を書した、遺著に老泉雜記ニ十卷がある。

彫刻

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