後藤桐月

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

五藤桐月は名を正道といひ通稱は恒次郞といふ、父永之肋正厚は安藝國老五藤氏のニ男にして天明中別に拔擢せられ新政の時大目附となり後諸役をへて文化十ニ年殁した、桐月家を繼ぎ甫め扈從を勸め侧物頭、近習目附を歷て文政十月亥五月大目附となり後屢々進退して三度大目附となり、又仕 置役側用役をも勸め大目附を再三勸務するは桐月より初まる人皆其の器度の凡ならざるを稱した、桐月は官務の暇に筆道を嗜み初め城下の島崎七內(號大丘〕に其寧流を學びしが後自得する所ありて後趙子昂を學び能く其の筆意を得て一家の流派を開いた、當時書道に上達せるものを以て冠とした、また馬術を好み歲耳順に至るも騎馬を試み钁鑠として衰へず人其の文武兼ね至るを稱した、安政五年戍午年七十一歳にて歿した。

彫刻

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