奥宮暁峰

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第三章武家美術時代

第四節繒畫と書道

奥宮曉峰は文政ニ年潮江土居町に生る。名は正路幼名は卯之助といひ曉峰存齋は皆その號にして又一名禮字は和卿といつた、幼にして書を中西半隱に學び十六歲の時己に長濱村に於て習宇の指南をなじた、弱冠の時家老深尾弘人に仕へ江戶に遊び山ロ管山の門に入り塾長を勸め傍ら佐藤ー齋安積良齋の門に遊んだ、其の學は王陽明良智の說を奉じ又禪を研めた、佐藤の門下に在る時佐久間象山等と常に同席にて講を聴きしと云はる。後年に若山勿堂の門に入り勿堂の大坂に官遊する時に従ひ 來り易講を聞く勿堂その熟心に感じて易傳を授けた、維新前にー時致道舘の敎官となりしが後明治の初上京し敎部省に入り尋で明治十年頃大久保內務卿の秘書文事係となり西南戰中の機密通信を掌つた、明治十三年には聘せられて高知海南學校の敎師となり二十年頃退職しこれより江ロ大川淵に卜居し老後文墨を樂とし餘生を送りつつあつたが明治廿六年十二月十七日病死した行年七十五城南潮江山に葬る著書に土佐存古錄、詩文集若干ある、曉峰人となり温恭にして胸裏開谿にて人と交るに畛域を設けず人何れも其の德に服歸した、漢學並に書道に長じ土佐の金石文の其の撰書に成るものが多い、書は初め半隱に學びしこと前述の如しであるが後じ薰其昌、趙子昂の風を折衷し洗鍊自らー体をなしその書風は當時の土佐の書道をー變せしめたことは前述の如くであつた士佐書道史に於て逸すべからざる作家である。

彫刻

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