本山白雲

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第四章庶民美術時代

第四節彫刻

當代に於ける彫刻は世の大勢に從ひて變動し木彫石彫の方面に人才を出さずして其の技進まざること甚しく只管普通のエ匠宮大エに之を委ぬる狀態であつた、然るに明治廿年頃より漸次欧米模做時代に入り西洋に行はれし塑造を修業するものが生じた、この方面に一家を成せるものを本山白雲となす

本山白雲

本山白雲は名は辰吉明治四年九月一日高知縣幡多郡宿毛町に生る、明治廿ー年上京して高村光雲の門に入り彫刻術を學び同廿三年七月東京美術學校彫刻本科に入學し同廿七年卒業し直に同校に奉職し在職年餘にして辭し男爵岩衬通俊に招聘せられて古今偉人傑士の肖像彫刻に從ふ、同卅年後藤象次郎の銅像原型を彫刻し同卅ニ年美術學校の懸賞競技に當選し佛蘭西人アリヴアーの胸像を製作す三十六年品川彌次郞の銅像原型を完成し卅八年海軍省の懸賞競技に應じ第一等に當選して西郷元帥、川村大將銅像の原型製作を命ぜられ更らに東鄕大將、大山元帥、松方侯、山縣公、永山中將、板垣退助、井上子爵、伊藤博文等の銅像を製作した、大正元年に至り藩祖山内一豐の銅像を製作し、次で林有造、小野義眞の銅像を作り、更に片岡健吉、板垣退助、山內容堂の銅像を完成した、白雲資性活達、 容貌魁偉、その作風はクラシック的にして其の技は明治大正年間に於ける當國出身の彫刻家中に冠絕す、高知公園追手門內にある板垣退助像の如きは優秀なりと稱せられてゐる。而して新進の彫刻家に島村治文、上田秋夫、弘田伸身がある、島村は高知市小高坂出身にして性淸廉にして眞摯、東京美術學校彫刻科に入り塑造を修め、卒業後も東都にありて研讃怠らざりしが歸國して後進の掖誘指導に力を竭し大和田重光等と共に高知繪畫研究所を開設し鄕土美術の發展に貢献努力してゐる前途有爲の作家である、上田は高知市唐人町出身にて島村と同じく東京美術學校彫刻科に入り木彫科を卒業したるが詞藻優婉にして詩に長じその創作に努めてゐる、弘田も仝じく高知市小高坂町宮の前の人にして東京美術學校彫刻科の木彫科を卒業して斯道に精進してゐる有爲の作家である。

吉野村若一王子宮

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